2025/02/28

構造屋さんのトリセツ

今日は、意匠屋さんのための、構造屋さんのトリセツの話です。



わたしは構造屋です。

構造屋は、建築士というよりも技術士に近い、いわゆるエンジニアと言ったほうがいい職業です。

エンジニアというと、どんなイメージでしょうか?

生真面目で、融通が利かず、人との会話では空気を読めず直球すぎる発言をしてしまう。

ちょっと、上から目線のいけ好かない奴、という印象。

わたしが思うに、世間一般には、大体こんな風に思われてるんじゃないかなぁと、、。



そんなちょっと困った構造屋さん。(あくまでも、一般的にそう思われているという意味ですよ~)

そんな構造屋さんから見て、意匠屋さんは、どんな風に見えているか、わかりますか?

実は、構造屋さんは構造屋さんで、意匠屋さんが苦手なんです。

なぜ苦手なのか?

口が達者だからです。

脅したり、持ち上げたり、泣き落としやら、、。

意匠屋さんの口八丁手八丁にかかってしまうと、うまく丸めこまれてしまう。

意匠屋さんの人心掌握術のスキルの高さといったら、尊敬物です。

対人スキルという面から言うと、構造屋と意匠屋は雲泥の差があります。

意匠屋さんにとっては、構造屋なんて赤子の手をひねるようなものでしょう。



そんな意匠屋さんが、

「ちょっと、ここの部分がなんでこうなるのか教えてくれない?」

という発言をするとき、構造屋のわたしの頭には警戒警報が鳴ります。

経験上、意匠屋さんがこういう発言をするのは、人心掌握術を発揮し始めていることが多いからです。

経験上、意匠屋さんがこんな風に切り出してきたが最後、いくら説明しても、意匠屋さんの思惑どおりにならなければ、永遠に話し合いを終えることができません。

教えて欲しいんじゃないんです、意匠屋さんの思惑どおりになる方法がないのか、意匠屋さんは可能性を探っているんです。

だけど、大抵は、方法がないんです。

構造屋さんは、すでに検討済みなことが多いです。

可能性を探り終わってます。

その結果が、そうなっているんですが。。。

その一つ、一つを、意匠屋さんに説明しなくちゃならない。

そして、その説明は技術的な部分になります。

ところが、技術的な部分を意匠屋さんは聞いてくれない。

教えてくれない?と建前上はいいますが、教えてもらおうということではなくて、なんでできないのか、話し合おうよ、できるかも知れないんじゃんって。

正直、難しい話は意匠屋さんは興味ないですよね?

だから、その部分で話合うのは、無理があります。

知ろうとしてない人に、どう教えても無駄でしかありません。


なので、意匠屋さんに分ってもらいたいのですが、

技術的な部分を、構造屋さんに質問するのは、余計に問題を難しくさせます。

そんなときには、こういってください。

「ここは、こんな風にしたい、なぜかと言うと、こういう理由があるから」

意匠屋さんが、どうしたいのかを構造屋さんに伝えてください。

エンジニアに意匠屋さん持ち前の人心掌握を発揮すると、いい結果にはなりません。

ド直球で、やりたいことを伝えてください。

わたしたち構造屋は、ド直球が好きです。

まどろこしいやり取りは、省いていただいてください。

多少、きつい言葉でも、構造屋さんは気にしません。

構造屋さんは、パートナーです。

決して、意匠屋さんのしたいことを邪魔する敵でもなく、説得する相手でもありません。

そして、ほんとは、意匠屋さんのオーダーに答えたいと思っています。

その為に、自分の技術を役に立てたいと思っています。



構造屋さんは、不器用でコミュニケーション能力も低いです。

ですが、実は意匠屋さんが人心掌握術で人を動かそうという魂胆に気づいています。

そういった態度は、構造屋さんの己はコミュニケーション能力が低いと自覚している劣等感を刺激してしまいます。

そうすると、嫌になるんです。意匠屋さんとコミュニケーションをとることが。

誰だって、馬鹿にされているって嫌ですよね?


意匠屋さんは、自分の得意なコミュニケーションという部分で問題を解決したい。

構造屋さんは、オーダーを技術で解決したい。


それぞれが、違う土俵にいるわけですので、とても不毛です。

構造屋さんをうまく扱える意匠屋さんは、その部分を分かっていると思います。

「技術的なことは分からない。だけど、ど~してもこういう風にしたい。なぜなら、こういう理由があるから。その理由を分かって欲しい。」

そういうコミュニケーションの取り方をする方が、構造屋さんは頑張るんです。

なぜなら、パートナーとして認めてくれているという技術者冥利に尽きるようなことが、構造屋さんの心を動かすからです。


どうでしょう?

意匠屋さん!

はさみとバカは使いようですよ。

使えないと思ってるその構造屋さんは、使いようによっては、ものすごく強力な味方になって、意匠屋さんを支えてくれる良きパートナーかも知れませんよ。


それでは、また。

2025/02/23

無関心という罪

わたしは末端のしがない構造屋なので、建築設計の業界の全体は把握してはいません。

わたしの知る業界は、ほんの一部分にしかすぎません。

ですが、わたしのような末端の建築屋は、たくさんいます。

そして末端の建築屋の手で建てられる建物は、業界の全体からみると、かなりの数になると思います。


残念なことに、末端の建築屋には、建築に無関心という建築士も存在します。

そもそも、建築に無関心であっても、それなりに勉強すれば建築士の免許はとることができます。それなりと言っても、大変は大変ですが。

わたしは、常日頃思っているのですが、

建築に限っていえば、「無関心は罪」です。

ほんとに、強くそう思います。




建築に無関心な建築士は、実際います。

無関心というか、興味があまりないというか、、。

わたしも、はじめは、信じられないと驚いたのですが、実際のところ、そんな建築士はいます。

建築士の資格をもっているなら、資格試験を取るために勉強をしたはずです。

なので、当然知っているであろうと思って、話をするのですが、何故か話が通じない。

よくよく話をしてみると、全く何も知らない。

「え、なんで?」「なんで知らないの?」信じられないと驚きました。

一体ど~したことなんだ、、摩訶不思議です。

この人はどうやって、建築士の試験に受かったんだ、、。

こういったことに出会う度に、最初の頃は、相手を責める思いが湧いてきました。

でもよ~く考えたら、わたしだって、設備の話になると、知らないことがいっぱいあります。構造屋なので、普段、設備といえばスリーブくらいしか気にしていません。

試験勉強したときに、いっぱい勉強して知識があるはずなのに、頭からなくなっています。

ですから、あまり人のことは責められたもんじゃありません、わたし自身も。



ですが、そうなんですが、ときたま、ほんとにな~にも知らない建築士がいるんです。

そんな建築士に出会うと、ほんとに不思議でたまりません。

それで、そんな建築士を観察というか、言動を冷静に眺めてみたんです。

なぜ彼らは、何も知らないのか?

答えは簡単です。

彼らは、興味がないんです。

建築士の免許を持ってはいるが、建築には興味が無い。

資格試験の為に勉強した内容は、彼らにとっては資格を取る手段であって、興味対象ではないので、免許をとったが最後、すべてきれいに頭から消去されてしまっています。

そして彼らの興味は、お金を儲けることに集中しています。



お金を儲けることは、経済活動の立派な理由です。

そういうのがなければ、経済は回らないのは当然の話です。

だから、それが良いとか悪いとかじゃなく、必然なのは理解できます。



ですが、それだけになってしまうと、非常に危険なことになります。

人の財産・生命を担保するための建築士の知識や技術が全くないまま、経済が優先されるようなことになれば、それは命よりお金を優先するという選択に傾いてしまいます。

設計がなぜ建築士の独占なのか?お金を優先して、人の財産・生命がないがしろにされることを抑制するためだと、わたしは思います。


ようは、建築士はストッパーです。

なんでもかんでもOKにさせない、良識というストッパーとして役割が建築士にはあると思います。



ここで、建築に無関心な建築士が実際に存在するということを考えてみてください。

彼らは、ストッパーにはなりえません。

でも彼らは設計業務をすることが可能です。

なんでもかんでもOKな建築士が存在するということは、人の財産・生命はないがしろにされる建物が実際に建ってしまいます。

ストッパーじゃない建築士と、普通の建築士。

一般の人は、どうやって見分けたらいいのでしょうか?

無理です、見分けられ能力があるくらいなら、その一般の人は、きっと自分で設計できるくらいの能力があるので、自分で設計したほうが良いです。



こういった問題が、業界の末端に起きていることを、どれだけの人が認識しているのでしょうか?

どうすれば、このような問題を解決することができるのでしょうか?



無関心な建築士を排除すれば、それでいいんでしょうか?

無関心は罪であると、苦言を呈すればいいでしょうか?

なんだか、それは違うんじゃないのかなぁと、わたしは思います。



無関心であることを、考えてみたらどうなんだろうと思います。

人の無関心ってなんでしょうね。

ようは、興味をそそられるかどうかだと思います。

興味があれば、無関心ではいられませんよね?

建築において、無関心というのは罪でしかないです。

ですが、そこを責めても意味がありません。

自覚がない罪を責めても、相手の心には響きません。


どうしたら良いのか?

とりあえず、はじめの一歩を踏み出させる動機が必要です。

無関心ではいられないような、自ずと興味が湧いてくるような体験が必要です。

この「はじめの一歩」が踏み出せるかどうかが、とても大事だと思います。


無関心という罪がなくなり、どんな末端の建築屋であっても、良識をもって建築に臨んでいるような社会であって欲しいなと思います。


わたしのような末端の構造屋であっても、こんな風な理想を想い描くことがあります。

理想論かもしれませんが、結局は建物は人の想いで建てられる部分が大きいです。

なので、そういった理想を持つことを、大切にしていきたいな~なんて思います。

ちょっと、センチメンタルな話ですね。

構造屋さんって、難しいことばかりじゃなくて、こんなセンチメンタルなことも考えたりするんだなと思っていただけたら嬉しいです。














2025/02/21

計算プログラムとブラックボックス

「構造計算プログラムのブラックボックス化」と、よく耳にします。

「ブラックボックス」とは、そのままの意味で「黒い箱」。

「黒い箱」の中では、何が行われているのかを見ることができません、黒いですから。

構造計算プログラムは、何が行われているのかを見ることができないから「ブラックボックス」と言われているのだと思います。

そして、計算プログラムはとても便利だけれども、この「ブラックボックス」によって危険な建物を生み出す弊害が生じることを危惧して、「構造計算プログラムのブラックボックス化」という言葉が使われているだと思います。



計算プログラムは、計算をしてくれるプログラムです。(当たり前ですが、、)

所定の数値を入力すると、プログラムが計算をし、結果をはじき出します。

プログラムは正直で、NGであればNGの結果、OKであればOKの結果をはじき出します。




手計算は、計算を自分でします。(当たり前ですが、、)

計算結果は、NGであればNGの結果が、OKであればOKの結果が出ます。

こういう部分は、手計算でも計算プログラムでも一緒です。




手計算と計算プログラムの違いは、何でしょう?


計算プログラムを使うとき、プログラムを使う人は、数値を入力するだけで計算はしません。

プログラムを使う人は、計算はプログラムにやらせて、プログラムに結果を出させます。

ですが、手計算は、計算を自分で行って、結果も自分で出します。

手計算と計算プログラムの違いは、計算と結果を、自分でやるのか、それともプログラムにやらせるのかの違いでしかありません。



なぜ、プログラムにやらせるのか?

大変だからです。

膨大な計算を一人の人間が、限られた工期内でやるためには、徹夜をして仕事を終わらせるしかありません。

しかも、構造設計という仕事の性質上、ミスは許されません、人の命がかかっていますからね。

睡眠不足であろうと、体調が優れなかろうと、関係ありません。

ミスなく、工期内に、膨大な計算をやるという、ミッションをクリアしなくていけません。

それに加えて、意匠変更などが出れば、場合によっては、最初からやり直す必要があります。

どうでしょう?大変ですよね。

計算プログラムに、この大変な作業を肩代わりしてもらえば、どんなに良いでしょうか?

きっと、睡眠不足も解消し、体調も万全になり、格段にミスも減ります。

ミスなく工期内にミッションをクリアし、意匠変更などにも迅速な対応が可能。

(実際は、そんなホワイトな仕事じゃありませんが、、、とりあえず、まぁ、そこは置いてお置くとします)

誰にとっても、よきことだらけです。




本来、計算プログラムは、構造設計の仕事の「計算する」という部分を効率化させるためにあります。

でも、人間って、どんどん、楽な方へ、楽な方へと行きがちですよね?

わたしも、そうです。

計算プログラムを使っていると、「結果」にしか目が行かなくなってしまいます。

プログラムがはじき出した「結果」のみに注力して、結果を生み出した「計算」の内容には注意を払わなくなってしまいがちです。

こういう状態になってしまうのは、計算プログラムに人が左右されているからだと思います。

これがもっと酷くなると、構造設計は計算プログラムがやっていて、人はただの入力オペレーターになってしまいます。



本来は、「プログラムを使う人は、計算はプログラムにやらせて、プログラムに結果を出させる」が正解です。

ですが、「プログラムを使う人は、計算はプログラムにやってもらう、プログラムに結果を出してもらう」、その傾向が濃くなっている、それが今の現状です。

だから、いつのまにか構造設計者じゃなくなって、入力オペレーターになってしまいます。



入力オペレーターで何が悪い?

良い悪いの問題ではなく、「結果について誰が責任を持つのか」という問題です。

構造設計者は、自分の構造計算の結果に、自分で責任を持つべきです。

それが仕事ですから。

「計算プログラムでOKが出したから、計算結果はOK」では、きっとダメだと思います。

計算プログラムに何らかのバグが生じていて、本来はNGだったものがOKという結果になっていた場合、これは誰の責任になるのでしょうか?

計算プログラムを作った会社の責任になるのでしょうか?

もしそうであるのならば、なんのために構造設計者はいるのでしょうか?

自分の設計には自分で責任を持つべきです。

計算プログラムの結果がおかしいことに気づかないことは、構造設計者のミスです。



でもどうでしょう?

計算プログラムの結果がおかしいことに気づけるでしょうか?

仕事をしていて、気づくときがあります。

思った結果と違う時に、「あれ~なんでだろう」と。

そういう時は、その部分を自分で電卓をたたいて計算します。

そういう時の原因の大体は、計算プログラムに入力した数値の入力ミスだったりします。

でも、計算プログラムのバクみたいのには、気づく自信はありません。

バグには気づけませんが、計算結果がおかしいことには、きっと気づけると思います。





「構造計算プログラムのブラックボックス化」

こんな言葉を耳にするとき、確かにそうだな、とわたしは思います。

計算プログラムは、とても便利ですが、いつのまにか人を堕落させてしまいます。

構造設計者として責任を持つべきところを、計算プログラムに転嫁してしまいがちです。

わたし自身も、普段の業務で多忙になると、ついつい、計算プログラムの結果がそうなのだから、きっと、そうなんだろうな、で終わらせてしまうことがあります。




自戒の意味でも、もっと「黒い箱」の中身を知るべきと思い、改めて勉強を始めました。

構造設計の仕事に就いて20年、自分が分からない、知らないということを放置してきたことに、恥ずかしいという思いがあります。

ですが、何事も遅すぎることなどない、思い立ったが吉日です。

構造計算プログラムは、ちっともブラックボックスじゃないよと言えるように、精進しようと思います。




願わくば、意匠屋さんにも分かって欲しいなと思います。

構造屋は、計算プログラムの入力オペレーターじゃないよ。

構造屋は、自分の仕事にプライドをもって、責任を果たそうと努力してますよ。

分かって頂ければ、

「計算プログラムで計算するだけだから、そんなに時間かからないでしょ?」

などど、心無い言葉で、構造さんがいじけてしまう。

なんてことが想像できるんじゃないんでしょうか?






2025/02/01

破壊を考えてるから、食い違う

 ある大工さんが言いました。

「へ~でもさ、ふつう、壊れるって考えないよ~。建てるのが自分の仕事だからな~」

飲み会の席で、大工さんが構造設計って何やるの?と聞くので、わたしなりの設計の流れを説明した時の反応でした。

大工さんにとっては、家を設計するときに、ビルドじゃなくてスクラップを考えているという、わたしの考え方は新鮮に感じたようです。



どういう考え方なのかというと、

必ず建物は壊れる。が、設計の前提。

設計の中で、いったん建物を組み上げて、そして、その建物を一回、頭のなかで壊してみる。

どうすればこの建物を壊すことができるのか?を試行錯誤する。

どこかしらの部材なり接合部が破壊する、そして建物が壊れる。

だったら、その弱点となる破壊する部分を、あらかじめ補強してあげておく。

そうすれば、壊れにくい建物になる。

新築で建てるのに、変な話ですが、一度設計を行ってから、耐震診断をして補強をしているようなものです。




もしかしたら、このようなわたしの構造設計の考え方は、イレギュラーかもしれません。

もともと一番最初に入ったのが、耐震診断・補強をメインにする会社だったので、こんな風な思考が染み込んでいるのかもしれません。

一般的な構造屋さんが、構造設計をするときに、どのように考えて設計しているかは、正直わかりません。

そういえば、構造屋同士で、どんな風に考えて設計しているのか、なんて話してみたことなかったかも知れません。

構造屋は何を考えて、設計をしているのか?

について一度、いろんな構造屋さんに聞いてみると、いろんな考えた方があったりして面白いかも。



ともあれ、実際に作り手である大工さんにとっては、大工さんが言ったとおり

「建てるのが仕事」

が普通に作り手にとっての正解だと思います。

誰も、壊れるかもなんて思いながら、ものを作ったりしませんよね。

意匠屋さんだって、お客さんが快適に住まうために設計をしてるでしょうしね。

大工さんだって、そうでしょう。

誰かが住まうための箱を建てるのが、住宅建築。というのが正論ですよね。




でも、わたしにとっては、そうじゃなくて、壊れるを考えるのが、思考として染み込んでしまって、いつのまにか正論を忘れてました。

だから、

大工さんの「建てるのが自分の仕事」

の言葉に、

「あっ!そうだよね、普通はそういうもんだよね。」

と、当たり前のことに、改めて気づかされました。失念しておりました。




意匠屋さんと設計の段階で協議するときに、なにかいまいち、通じないな~と不満に思うことが多々あります。

これはきっと、設計に対する元々の思想が違うというのも原因のひとつじゃないんでしょうか?

作る・建てる、っていうのは創造的なもので、どちらかというと前向きですよね。

わたしの壊れるのを考えるという考え方は、違う方向を向いてます、後ろ向きです。

でも、壊れる破壊点を補強しようというのですから、結局は前に進んでいるわけなんですけどね。。。

まぁ、意匠屋さんにとっては、「ここが壊れるので、ここを強くしましょう」なんて言われると嫌なのかもしれません。

だって、自分が創造したものに、最初から欠陥があるなんて思いたくないでしょうから。

だから、意匠屋さんにとって、構造屋さんは嫌な事いう奴にしか思えなくても仕方ないです。




意匠屋さんにとっては、建物は「建てる物」で、壊れるってことは想定外。

構造屋さんにとっては、建物は「壊れる物」で、それを土台に考える。


意匠屋さんから見れば、壊れるなんて後ろ向きな意見は創造する仕事にとっては邪魔でしかない。だから構造屋さんの態度は、自分の仕事を邪魔していると感じられる。

構造屋さんから見れば、前しか向いてない意匠屋さんの態度は軽率だと感じられる。



わたしにとっては、破壊を考えるのが構造の仕事の中には必ず必要なんだという思いがあるのですが、そこを出発点に意匠屋さんと会話すると、どうにもこうにも食い違ってしまう。


破壊を考えなきゃいけないけど、破壊を考えているからこそ、食い違ってしまう。



大工さんの一言で、気づかされました。

建築に関わる人たちの想いは、それぞれですね。

きっと、それぞれが正しいんだと思います。

いろんな意見をすり合わせ、結果、いい建物ができれば、それでいいんじゃないかと個人的には思います。

いい建物になるには、関わる人たちが、自分以外の意見にも耳を傾けるのが大切なことだし、そうできる人間関係ができていなくちゃいけないと思います。

まぁ、理想論ですが。

理想と現実、そのギャップに虚無感を感じることが日常ですが、、。

まぁ、あまり難しく考えず、気張らず、できることをがんばろっと!


それでは、また。

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