無関心という罪

わたしは末端のしがない構造屋なので、建築設計の業界の全体は把握してはいません。

わたしの知る業界は、ほんの一部分にしかすぎません。

ですが、わたしのような末端の建築屋は、たくさんいます。

そして末端の建築屋の手で建てられる建物は、業界の全体からみると、かなりの数になると思います。


残念なことに、末端の建築屋には、建築に無関心という建築士も存在します。

そもそも、建築に無関心であっても、それなりに勉強すれば建築士の免許はとることができます。それなりと言っても、大変は大変ですが。

わたしは、常日頃思っているのですが、

建築に限っていえば、「無関心は罪」です。

ほんとに、強くそう思います。




建築に無関心な建築士は、実際います。

無関心というか、興味があまりないというか、、。

わたしも、はじめは、信じられないと驚いたのですが、実際のところ、そんな建築士はいます。

建築士の資格をもっているなら、資格試験を取るために勉強をしたはずです。

なので、当然知っているであろうと思って、話をするのですが、何故か話が通じない。

よくよく話をしてみると、全く何も知らない。

「え、なんで?」「なんで知らないの?」信じられないと驚きました。

一体ど~したことなんだ、、摩訶不思議です。

この人はどうやって、建築士の試験に受かったんだ、、。

こういったことに出会う度に、最初の頃は、相手を責める思いが湧いてきました。

でもよ~く考えたら、わたしだって、設備の話になると、知らないことがいっぱいあります。構造屋なので、普段、設備といえばスリーブくらいしか気にしていません。

試験勉強したときに、いっぱい勉強して知識があるはずなのに、頭からなくなっています。

ですから、あまり人のことは責められたもんじゃありません、わたし自身も。



ですが、そうなんですが、ときたま、ほんとにな~にも知らない建築士がいるんです。

そんな建築士に出会うと、ほんとに不思議でたまりません。

それで、そんな建築士を観察というか、言動を冷静に眺めてみたんです。

なぜ彼らは、何も知らないのか?

答えは簡単です。

彼らは、興味がないんです。

建築士の免許を持ってはいるが、建築には興味が無い。

資格試験の為に勉強した内容は、彼らにとっては資格を取る手段であって、興味対象ではないので、免許をとったが最後、すべてきれいに頭から消去されてしまっています。

そして彼らの興味は、お金を儲けることに集中しています。



お金を儲けることは、経済活動の立派な理由です。

そういうのがなければ、経済は回らないのは当然の話です。

だから、それが良いとか悪いとかじゃなく、必然なのは理解できます。



ですが、それだけになってしまうと、非常に危険なことになります。

人の財産・生命を担保するための建築士の知識や技術が全くないまま、経済が優先されるようなことになれば、それは命よりお金を優先するという選択に傾いてしまいます。

設計がなぜ建築士の独占なのか?お金を優先して、人の財産・生命がないがしろにされることを抑制するためだと、わたしは思います。


ようは、建築士はストッパーです。

なんでもかんでもOKにさせない、良識というストッパーとして役割が建築士にはあると思います。



ここで、建築に無関心な建築士が実際に存在するということを考えてみてください。

彼らは、ストッパーにはなりえません。

でも彼らは設計業務をすることが可能です。

なんでもかんでもOKな建築士が存在するということは、人の財産・生命はないがしろにされる建物が実際に建ってしまいます。

ストッパーじゃない建築士と、普通の建築士。

一般の人は、どうやって見分けたらいいのでしょうか?

無理です、見分けられ能力があるくらいなら、その一般の人は、きっと自分で設計できるくらいの能力があるので、自分で設計したほうが良いです。



こういった問題が、業界の末端に起きていることを、どれだけの人が認識しているのでしょうか?

どうすれば、このような問題を解決することができるのでしょうか?



無関心な建築士を排除すれば、それでいいんでしょうか?

無関心は罪であると、苦言を呈すればいいでしょうか?

なんだか、それは違うんじゃないのかなぁと、わたしは思います。



無関心であることを、考えてみたらどうなんだろうと思います。

人の無関心ってなんでしょうね。

ようは、興味をそそられるかどうかだと思います。

興味があれば、無関心ではいられませんよね?

建築において、無関心というのは罪でしかないです。

ですが、そこを責めても意味がありません。

自覚がない罪を責めても、相手の心には響きません。


どうしたら良いのか?

とりあえず、はじめの一歩を踏み出させる動機が必要です。

無関心ではいられないような、自ずと興味が湧いてくるような体験が必要です。

この「はじめの一歩」が踏み出せるかどうかが、とても大事だと思います。


無関心という罪がなくなり、どんな末端の建築屋であっても、良識をもって建築に臨んでいるような社会であって欲しいなと思います。


わたしのような末端の構造屋であっても、こんな風な理想を想い描くことがあります。

理想論かもしれませんが、結局は建物は人の想いで建てられる部分が大きいです。

なので、そういった理想を持つことを、大切にしていきたいな~なんて思います。

ちょっと、センチメンタルな話ですね。

構造屋さんって、難しいことばかりじゃなくて、こんなセンチメンタルなことも考えたりするんだなと思っていただけたら嬉しいです。














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