数学と私

わたしは、30才の頃に、全くの未経験から構造設計事務所に入りました。

高卒だし、学生のときも勉強も得意じゃないというか、不向きな方だったと思います。

なので、いわゆる工学系の大学をでている構造設計者に対峙すると、わたしの知らない学問を相手は学んできた積重ねがあるんだろうなと、ちょっと劣等感を持ちます。


でも、そんなことを今更、仕方ないじゃない?

人生の途中で、構造設計の仕事に就くなんて思わなかったし、分かってたら工学系の大学に進学してたよ、そんなことでクヨクヨする時間があったら、できる範囲で今から学べばいいじゃない?

と自分で自分を鼓舞するようにしています。


「劣等感」って、なんとなくマイナスイメージな言葉ですけど、案外悪くないと思います。

人より劣っていることを自分で認めることができるなら、劣っていると思う部分を補ってやればいいだけですから。

劣っていると思う部分を洗い出して、とりあえず手を出せるところから独学で勉強しているので、亀の歩みですが、なんとな~く、ちょっと分かってきたかも。

と思うときもあれば、

「やっぱり、わから~ん、無理無理、難しい、ひ~」と挫折感に打ちのめされるときもあったりして。


でも、そんなこんで地道にやっているうちに、ここ何年か前から、

「劣等感」を克服する勉強が、シンプルにただ「おもしろいぞ」という心境に変化しつつあります。

また、年を重ねて、だんだん自分が何者かなんてど~でもよくなって、単純に面白いことを楽しみたいの思いが強くなってきたせいかもしれません。


「大人になった今、学ぶのが楽しい」

って言う人、わたしの周りにも結構います。わたしも、同意です。


今だから思うのですが、学生の時にはどうやっても「学ぶのが楽しい」なんて心境にはなれなかったと思います。ほんと単純に学問に興味がなかったですから。

それが今は楽しい、不思議ですね~。




さて、今回のブログタイトル『数学と私』についてです。

わざわざ長々と、ど~でもいい、わたしの経歴や大人の勉強についての思いを書いた理由は『数学』にあります。

構造設計の本を開くと、『数学』の奴が、ちょいちょい顔を出しやがるんですよね。


本を執筆していらっしゃる方は、悪気などないと分かっているのですが、、、

「数学わかってることが前提」で、話を進めるんですよ本の中で。


ええ、分かっていますよ。数学の教養がない、わたしの方が構造設計の本の読者としてはイレギュラーなんですよね。


まぁ仕方がないです。本の中の『数学』部分については、ちょこっとネットで調べて、あぁなるほどねと、わかったふりをしてお茶を濁しつつ独学をしてました。


ですが、学べば学ぶほど、『数学』は避けて通れないぞということに気づきました。

じゃ、観念してやってみるか、『数学』。

やってみると、全然おもしろくない。

やればやるほど、構造設計から離れていく、わたしは構造設計にしか興味がない、だから楽しくない。



苦行でしたが、眠気しかおきない数学のテキストをどうにかこなそうとしているうちに気づきました。

「これは、長編の小説だ」

何か結論がある、そのための前置きやらストーリーが展開されている、だけど道のりが長い、長すぎる。


それに日本語じゃない、日本語だけど日本語じゃない。

言語そのものが違うという意味もありますが、その他にも英語と日本語の文法が違うという意味もあります。

日本語→主語+目的語+動詞、英語→主語+動詞+目的語、文法が違うのだから、当然、頭もスイッチを切り替える必要がある。


『数学』も頭のスイッチを切り替える必要がある。今持っている自分の常識が通じない異文化に慣れなきゃいけない。


わたしの思い違いかもしれませんが、これから『数学』に着手するなら、そんな心づもりが必要だろうなと、薄っすら、そんな予感を感じていました。



理解できていない異文化で、言語が違う、長編の小説。

そりゃ、数学のテキスト読んでて、眠気に襲われてもしょうがないよね。

でも、ど~してもここを解決しないと、構造設計の本を書いている執筆者の人が伝えようとしていることを100%理解できそうにない。

別に100%でなくても、80%でも、良いといえばそれでいいんですが、気持ち悪いんですよね。

解けないミステリーみたいで、気持ち悪い。

犯人は分かった、でも、犯行のトリックが分からない。気持ち悪い。

ああ、気持ち悪いなぁ。のどにある魚の骨みたいに。





知人が誘ってくれた、数学のセミナー。

もしかしたら、なにかしら収穫があるかもと参加してみました。

ありました収穫が。


わたしは常々、数学はツールだと思っていました。

何か目的があって、そのための便利なツールが数学なんだろうなぁと。

ただそれを導き出すための道のりが遠く、「退屈な長編の小説」だと思っていました。


セミナーを受けてみて、あれちょっと違うのかもと、感じました。

どうやら、わたしの知らない違う視点が存在しているみたいです。


セミナーの先生は、宇宙人です。

失礼な意味じゃありませんよ、使う言語が違う、思考回路も違うという意味です。


これまでの独学数学の予習が効いたのか、言語は怪しいながらも聞き取れます。片言で宇宙人と交信といったところでしょうか。



先生が数学に対峙する時、その時の態度から伝わるものがありました。

セミナーの先生の本意はよくわかりません。なにしろ宇宙人との交信ですから、ところどころ雑音が入ってしまって、クリアな交流が満足にできたとは言えません。

ですから、これは、わたしが一方的に、きっとそうなのだろうなという感想です。


数学には美学がある。


もしかしたら、哲学かもしれません。どちらにしろ、今までツールだと思っていた、わたしにとっては、新たな視点です。

無味乾燥なツールのための長編小説じゃなくて、どうやら哲学とか美学的なものがあるようです。たぶん。きっと。

わたしにとっては、新しい視点です。

この視点で、『数学』に取り組でみると、もしかしたら楽しいのかもしれません。

宇宙人先生が、楽しそうにしていらっしゃたので、きっとそうなのでしょう。




わたしは、小説や映画のミステリーが好きです。

わたしにとって、独学はミステリーと一緒です。

犯人はだれ?トリックは?、わくわくします。



ですが、小説や映画のように、種明かしがラストで展開しない場合もあるのが独学です。

何度チャレンジしても解けない、行き詰ったときには、先駆者に頼るのもいいかもしれません。


今回、セミナーに参加して良かったです。

数学が解けたかというと全く違いますが、大事なヒントを拾ったような気がします。

美学の視点を頭に、もう一回、数学に取り組んでみたら、楽しそうな気がしてきました。


宇宙人先生と、誘ってくれた知人に、大感謝です。

面白いことが、ひとつ増えました!



構造屋のいっぷく独り言、それではまた。













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