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壁倍率の変遷H12

わたしは、法律って【なまもの】だな~って思います。 建築士の資格勉強をしていて、法律の条文のややこしさに頭を抱えませんでしたか? 〇〇の条文による、なんて書いてあるから、その条文を探すと、さらにさらに〇〇の条文に飛ぶ、飛んで飛んで、気づいたら何を探してったけ?ってなる。 もう一回、最初に戻って、そこからまた始める。めんどいMAXです。 なんで、こんな分かりずらいのか? それは追加、追加、改正、改正を繰り返して、もともとシンプルなものがぐちゃぐちゃになっちゃった、、そんな経緯なんじゃなかろうかな~なんて思います。 じゃ、ここまでぐちゃぐちゃになっちゃっうくらいに、追加追加、改正改正をしているのはなんで? 時代のニーズに合わせて、場当たり的に対応したからだと思います。 シックハウスが社会問題になって、国はそれに対応させるために、建材の指定や換気を整備させるために、法改正を行う。 地震で甚大な被害が出たけど、大きく設計方針は変えられない、だから塑性設計を取り入れる法改正を行う。 いつだって、社会の要請の突き上げにあって、やばっとなって、大急ぎで対応する。 とりあえず、条文を追加するか、改正するかにして、細かいことは告示に示しておく。 認識を広めるために、建築士に対して、講習やらセミナーを行う。 だけどそれは、改正された時点での話。 何年か経つと、もともとの改正になった原因なんかは忘れ去られて、法律の条文だけが独り歩きしていく。 法律の条文に、なんでこの条文が作られたか、なんて書いてないですよね? もともとは、その時代、その時代の社会のニーズに合わせて条文は作られているはずです。 だけど、それに関しては、もう忘却のかなた。その経緯を覚えている人は、実際に改正に関わってた関係者だけだと思います。 というわけで、忘却のかなたになってしまっているものを拾ってみました。 木造の【壁倍率】です。 今、木造の構造設計をなりわいにしている方は、壁倍率の一倍は1.96kN /mなのはご存知でしょう。 1.96kN/m=200kgf なのもご存知だと思います。 ところで、H12の告示で金物強化をすることで、実質に保有耐力まで賄おうとしたことは周知の事実です。ですが、壁量計算についてはメスが入っていません。 この法改正の時に、建築士に対してどんな説明がなされたのかは、その当時この業界にいなかっ...

構造屋さんのトリセツ

今日は、意匠屋さんのための、構造屋さんのトリセツの話です。 わたしは構造屋です。 構造屋は、建築士というよりも技術士に近い、いわゆるエンジニアと言ったほうがいい職業です。 エンジニアというと、どんなイメージでしょうか? 生真面目で、融通が利かず、人との会話では空気を読めず直球すぎる発言をしてしまう。 ちょっと、上から目線のいけ好かない奴、という印象。 わたしが思うに、世間一般には、大体こんな風に思われてるんじゃないかなぁと、、。 そんなちょっと困った構造屋さん。(あくまでも、一般的にそう思われているという意味ですよ~) そんな構造屋さんから見て、意匠屋さんは、どんな風に見えているか、わかりますか? 実は、構造屋さんは構造屋さんで、意匠屋さんが苦手なんです。 なぜ苦手なのか? 口が達者だからです。 脅したり、持ち上げたり、泣き落としやら、、。 意匠屋さんの 口八丁手八丁にかかってしまうと、うまく丸めこまれてしまう。 意匠屋さんの 人心掌握術のスキルの高さといったら、尊敬物です。 対人スキルという面から言うと、構造屋と意匠屋は雲泥の差があります。 意匠屋さんにとっては、構造屋なんて赤子の手をひねるようなものでしょう。 そんな意匠屋さんが、 「ちょっと、ここの部分がなんでこうなるのか教えてくれない?」 という発言をするとき、構造屋のわたしの頭には警戒警報が鳴ります。 経験上、意匠屋さんがこういう発言をするのは、人心掌握術を発揮し始めていることが多いからです。 経験上、意匠屋さんがこんな風に切り出してきたが最後、いくら説明しても、意匠屋さんの思惑どおりにならなければ、永遠に話し合いを終えることができません。 教えて欲しいんじゃないんです、意匠屋さんの思惑どおりになる方法がないのか、意匠屋さんは可能性を探っているんです。 だけど、大抵は、方法がないんです。 構造屋さんは、すでに検討済みなことが多いです。 可能性を探り終わってます。 その結果が、そうなっているんですが。。。 その一つ、一つを、意匠屋さんに説明しなくちゃならない。 そして、その説明は技術的な部分になります。 ところが、技術的な部分を意匠屋さんは聞いてくれない。 教えてくれない?と建前上はいいますが、教えてもらおうということではなくて、なんでできないのか、話し合おうよ、できるかも知れないんじゃんって。 正直、難しい...

無関心という罪

わたしは末端のしがない構造屋なので、建築設計の業界の全体は把握してはいません。 わたしの知る業界は、ほんの一部分にしかすぎません。 ですが、わたしのような末端の建築屋は、たくさんいます。 そして末端の建築屋の手で建てられる建物は、業界の全体からみると、かなりの数になると思います。 残念なことに、末端の建築屋には、建築に無関心という建築士も存在します。 そもそも、建築に無関心であっても、それなりに勉強すれば建築士の免許はとることができます。それなりと言っても、大変は大変ですが。 わたしは、常日頃思っているのですが、 建築に限っていえば、「無関心は罪」です。 ほんとに、強くそう思います。 建築に無関心な建築士は、実際います。 無関心というか、興味があまりないというか、、。 わたしも、はじめは、信じられないと驚いたのですが、実際のところ、そんな建築士はいます。 建築士の資格をもっているなら、資格試験を取るために勉強をしたはずです。 なので、当然知っているであろうと思って、話をするのですが、何故か話が通じない。 よくよく話をしてみると、全く何も知らない。 「え、なんで?」「なんで知らないの?」信じられないと驚きました。 一体ど~したことなんだ、、摩訶不思議です。 この人はどうやって、建築士の試験に受かったんだ、、。 こういったことに出会う度に、最初の頃は、相手を責める思いが湧いてきました。 でもよ~く考えたら、わたしだって、設備の話になると、知らないことがいっぱいあります。構造屋なので、普段、設備といえばスリーブくらいしか気にしていません。 試験勉強したときに、いっぱい勉強して知識があるはずなのに、頭からなくなっています。 ですから、あまり人のことは責められたもんじゃありません、わたし自身も。 ですが、そうなんですが、ときたま、ほんとにな~にも知らない建築士がいるんです。 そんな建築士に出会うと、ほんとに不思議でたまりません。 それで、そんな建築士を観察というか、言動を冷静に眺めてみたんです。 なぜ彼らは、何も知らないのか? 答えは簡単です。 彼らは、興味がないんです。 建築士の免許を持ってはいるが、建築には興味が無い。 資格試験の為に勉強した内容は、彼らにとっては資格を取る手段であって、興味対象ではないので、免許をとったが最後、すべてきれいに頭から消去されてしまっています...

計算プログラムとブラックボックス

「構造計算プログラムのブラックボックス化」と、よく耳にします。 「ブラックボックス」とは、そのままの意味で「黒い箱」。 「黒い箱」の中では、何が行われているのかを見ることができません、黒いですから。 構造計算プログラムは、何が行われているのかを見ることができないから「ブラックボックス」と言われているのだと思います。 そして、計算プログラムはとても便利だけれども、この「ブラックボックス」によって危険な建物を生み出す弊害が生じることを危惧して、「構造計算プログラムのブラックボックス化」という言葉が使われているだと思います。 計算プログラムは、計算をしてくれるプログラムです。(当たり前ですが、、) 所定の数値を入力すると、プログラムが計算をし、結果をはじき出します。 プログラムは正直で、NGであればNGの結果、OKであればOKの結果をはじき出します。 手計算は、計算を自分でします。(当たり前ですが、、) 計算結果は、NGであればNGの結果が、OKであればOKの結果が出ます。 こういう部分は、手計算でも計算プログラムでも一緒です。 手計算と計算プログラムの違いは、何でしょう? 計算プログラムを使うとき、プログラムを使う人は、数値を入力するだけで計算はしません。 プログラムを使う人は、計算はプログラムにやらせて、プログラムに結果を出させます。 ですが、手計算は、計算を自分で行って、結果も自分で出します。 手計算と計算プログラムの違いは、計算と結果を、自分でやるのか、それともプログラムにやらせるのかの違いでしかありません。 なぜ、プログラムにやらせるのか? 大変だからです。 膨大な計算を一人の人間が、限られた工期内でやるためには、徹夜をして仕事を終わらせるしかありません。 しかも、構造設計という仕事の性質上、ミスは許されません、人の命がかかっていますからね。 睡眠不足であろうと、体調が優れなかろうと、関係ありません。 ミスなく、工期内に、膨大な計算をやるという、ミッションをクリアしなくていけません。 それに加えて、意匠変更などが出れば、場合によっては、最初からやり直す必要があります。 どうでしょう?大変ですよね。 計算プログラムに、この大変な作業を肩代わりしてもらえば、どんなに良いでしょうか? きっと、睡眠不足も解消し、体調も万全になり、格段にミスも減ります。 ミスなく工期内に...

破壊を考えてるから、食い違う

 ある大工さんが言いました。 「へ~でもさ、ふつう、壊れるって考えないよ~。建てるのが自分の仕事だからな~」 飲み会の席で、大工さんが構造設計って何やるの?と聞くので、わたしなりの設計の流れを説明した時の反応でした。 大工さんにとっては、家を設計するときに、ビルドじゃなくてスクラップを考えているという、わたしの考え方は新鮮に感じたようです。 どういう考え方なのかというと、 必ず建物は壊れる。が、設計の前提。 設計の中で、いったん建物を組み上げて、そして、その建物を一回、頭のなかで壊してみる。 どうすればこの建物を壊すことができるのか?を試行錯誤する。 どこかしらの部材なり接合部が破壊する、そして建物が壊れる。 だったら、その弱点となる破壊する部分を、あらかじめ補強してあげておく。 そうすれば、壊れにくい建物になる。 新築で建てるのに、変な話ですが、一度設計を行ってから、耐震診断をして補強をしているようなものです。 もしかしたら、このようなわたしの構造設計の考え方は、イレギュラーかもしれません。 もともと一番最初に入ったのが、耐震診断・補強をメインにする会社だったので、こんな風な思考が染み込んでいるのかもしれません。 一般的な構造屋さんが、構造設計をするときに、どのように考えて設計しているかは、正直わかりません。 そういえば、構造屋同士で、どんな風に考えて設計しているのか、なんて話してみたことなかったかも知れません。 構造屋は何を考えて、設計をしているのか? について一度、いろんな構造屋さんに聞いてみると、いろんな考えた方があったりして面白いかも。 ともあれ、実際に作り手である大工さんにとっては、大工さんが言ったとおり 「建てるのが仕事」 が普通に作り手にとっての正解だと思います。 誰も、壊れるかもなんて思いながら、ものを作ったりしませんよね。 意匠屋さんだって、お客さんが快適に住まうために設計をしてるでしょうしね。 大工さんだって、そうでしょう。 誰かが住まうための箱を建てるのが、住宅建築。というのが正論ですよね。 でも、わたしにとっては、そうじゃなくて、壊れるを考えるのが、思考として染み込んでしまって、いつのまにか正論を忘れてました。 だから、 大工さんの「建てるのが自分の仕事」 の言葉に、 「あっ!そうだよね、普通はそういうもんだよね。」 と、当たり前の...

数学と私

わたしは、30才の頃に、全くの未経験から構造設計事務所に入りました。 高卒だし、学生のときも勉強も得意じゃないというか、不向きな方だったと思います。 なので、いわゆる工学系の大学をでている構造設計者に対峙すると、わたしの知らない学問を相手は学んできた積重ねがあるんだろうなと、ちょっと劣等感を持ちます。 でも、そんなことを今更、仕方ないじゃない? 人生の途中で、構造設計の仕事に就くなんて思わなかったし、分かってたら工学系の大学に進学してたよ、そんなことでクヨクヨする時間があったら、できる範囲で今から学べばいいじゃない? と自分で自分を鼓舞するようにしています。 「劣等感」って、なんとなくマイナスイメージな言葉ですけど、案外悪くないと思います。 人より劣っていることを自分で認めることができるなら、劣っていると思う部分を補ってやればいいだけですから。 劣っていると思う部分を洗い出して、とりあえず手を出せるところから独学で勉強しているので、亀の歩みですが、なんとな~く、ちょっと分かってきたかも。 と思うときもあれば、 「やっぱり、わから~ん、無理無理、難しい、ひ~」と挫折感に打ちのめされるときもあったりして。 でも、そんなこんで地道にやっているうちに、ここ何年か前から、 「劣等感」を克服する勉強が、シンプルにただ「おもしろいぞ」という心境に変化しつつあります。 また、年を重ねて、だんだん自分が何者かなんてど~でもよくなって、単純に面白いことを楽しみたいの思いが強くなってきたせいかもしれません。 「大人になった今、学ぶのが楽しい」 って言う人、わたしの周りにも結構います。わたしも、同意です。 今だから思うのですが、学生の時にはどうやっても「学ぶのが楽しい」なんて心境にはなれなかったと思います。ほんと単純に学問に興味がなかったですから。 それが今は楽しい、不思議ですね~。 さて、今回のブログタイトル『数学と私』についてです。 わざわざ長々と、ど~でもいい、わたしの経歴や大人の勉強についての思いを書いた理由は『数学』にあります。 構造設計の本を開くと、『数学』の奴が、ちょいちょい顔を出しやがるんですよね。 本を執筆していらっしゃる方は、悪気などないと分かっているのですが、、、 「数学わかってることが前提」で、話を進めるんですよ本の中で。 ええ、分かっていますよ。数学の教養がない、...

末端の構造屋しか知らないことがある

  先日、鉄骨造の耐震診断・改修の技術者講習会に参加してきました。  講師の方が何度も、 「この本は古いので、黄色本や、学会の方に従って〜」 と、おっしゃっていたのが気になりました。  今回は、その話をします。    2011年と2013年に出版された2冊が、講習会のテキストに指定されていました。  今年は、2024年なので、いずれも10年以上前のテキストになります。  講習会で、何度も講師の方が、 「この本ではこのように記載がありますが、実務では、この部分については〇〇のようにしてください」  と注意喚起されていました。  10年以上前に出版されたときから今に至る、その間に、災害の調査等による、いろんな知見が明るみになり、以前の定義が必ずしも正しいとは言えなくなった。  ということなのでしょうね、きっと。  こういうことは、構造の分野では、よく見られることです。  大きな自然災害が起きるたびに、専門家による調査が入り、構造的な致命傷となってしまった部分が明るみになり、それが知見の積み重ねになります。  なので、構造屋は、常に「新しき」を学び続ける宿命にあります。こういう部分は、構造屋って、技術者に近いよな〜と、個人的には思います。  ですが、「災害で、このような被害がでたので、今度から、教訓を活かして、このように設計しましょう」と言われるたびに、心に引っかかるものを感じるのは、わたしだけでしょうか?  ほんとに、それは大地震が来なければ、想定できなかった被害なんだろうか?  ほんとうは、ちゃんと目を逸らさずにいれば、被害を未然に防げたんじゃないんだろうか?  そんな考えが頭をよぎります。  今まで、これで問題が出たことはない。だから、問題はない。実際、こんな風の建物はいっぱいあるじゃないか。  こんな風に言われ、仕方なく危ない設計を強要されている構造屋さんはいっぱいいると思います。  でも、大きな自然災害の調査で、構造的欠陥がクローズアップされ、「これは不味い設計」と、取りざたされるようになる。  これって、おかしくないですか?  明らかに、おかしいです!  まるで、大きな自然災害が、実物実験になっているようじゃありませんか?  それで、被害に遭われた人は、どう思うでしょうか?    だいぶ前から、性能設計の思想が、実際の構造設計に取り入られるようになりま...

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